「恋人の目には」 Dr. Bell's Vengeance: In a Lover's Eyes  by Nikki J. 出所
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クウェンティンは、筋肉が波打つ恋人の腹部に手を添えながら横寝になっていた。その目は、彼の恋人の完璧とも言える彫りの深い、男性的なハンサムな顔を愛しそうに見つめていた。クウェンティンは大学2年生の時、グレッグと出会った。ふたりが互いのことをほとんど知らなかった当時からすら、ふたりは気が会い、そのことは周囲にも有名であった。何らかの結びつきがあった。魂の触れ合いとでもいうべきものである。それは否定できない。ひと目惚れというのは存在しないと思う人もいるだろうが、クウェンティンもグレッグも、そういう人には属さない。ふたりとも、ひと目惚れを身を持って体験したのだから。

確かに、ふたりとも当時、そのことを実感していたわけではない。たいていのゲイの男性はそういうものである。さらに複雑にしていたのは、クウェンティンが極度に信心深い家庭に育ち、彼の生き方を承認しなかったという事実であった。結果として、クウェンティンは、自分の本当の姿を認め、自分が本当に求めていることを求めることに臆病になっていた。その彼の性格により、芽が出たばかりの関係はゆっくりと育てることになった。とは言え、ふたりとも、その関係の成長を止めることはできなかっただろう。たとえ、ふたりが関係の深化を望まなかったとしても止めることはできなかっただろう。なぜならば、愛というものは強いものであるから。愛というものは否定できるものではないから。

1年ほど経つと、ふたりの感情は真剣なものに変わり、その半年後、ふたりは一緒に住むことにした。大学を卒業後、ふたりとも自分で自分の人生を決めることができるようになった。世界は美味な肉に満ち、ふたり互いにそれを満喫した。

同居を始めて3年後、グレッグはクウェンティンにプロポーズした。結婚のプロポーズではない。と言うのも、彼らが住む州では同性婚は違法だからである。そのプロポーズは、ある意味、結婚より深遠なものであった。少なくともクウェンティンはそう思った。彼の論理によれば、男女間の結婚、あるいは少なくとも結婚しようと決めることは、簡単な決断だということである。誰も反対しないものだ。だが、それに比べて、ふたりのゲイ男性が一生、共に人生を送る誓いを立てるということは、どうだろうか? 人々の不寛容や、時には、あからさまに憎悪を剥き出しにされる中で暮らしていくというのは、どうだろうか? これには相当の覚悟がいると言える。

クウェンティンは、何気なく指でグレッグの腹筋の輪郭をなぞった。その白い肌に指を走らす。彼は、グレッグがプロポーズしてくれた夜のことを思い出しながら、満足げに溜息をついた。あれは暑い夏の夜だった。グレッグは美味しい料理の用意をしていた。ふたりは、その日あった出来事とか政治とかスポーツとか、日常的なことを話しながら、その料理を食べた。だが、クウェンティンは料理も話題もほとんど覚えていない。というのも、記憶力のすべてが、その食事の直後に起きたことに捧げられたからである。

グレッグがテーブルから立ち、クウェンティンの横にひざまずいた。クウェンティンは、横にひざまずく彼の輝く顔に目を落とし、そしてその青い瞳を覗きこんだ。

「君を愛している。一生、君と一緒にいたい。だから、申し込みたい。できるなら、もし可能なら、僕と結婚してくれないか?」

クウェンティンは答えようとしたが、グレッグは遮った。「ちょっと待って。まだ終わっていない。それまで待ってくれ。……もしイエスと言ってくれるなら、もちろん、僕は今ここで誓う。君と、君だけと共に生き、世界の他のなによりも君を愛すると。たとえ、僕たちが決して結婚を許されなくても」

グレッグの横に横たわりながら、クウェンティンは2年が経った今でも、言葉のひとつひとつを覚えていた。どうして忘れることができよう? もちろん、彼はイエスと言った。ゲイの結婚はいまだ合法化されていないが、クウェンティンとグレッグにとっては、それは大きな問題ではなかった。ふたりとも覚悟を決めたということの方が重要であった。法によって認められようが認められなかろうが、ふたりの覚悟を変えることはできない。

「ん……、くすぐったいよ」とグレッグは眠たそうに言った。彼は目を閉じたまま微笑み、クウェンティンの手を握った。

このまま指いじりを続けていたら、ふたりとも一晩中起きてることになると知っていたクウェンティンは、指いじりをやめ、頭をグレッグの胸板に乗せ、そして眠りに落ちた。ふたりの愛が世の中に認められる世界を夢見ながら。

*

「がんばれ! 君には、力が残ってるはずだぞ!」 とグレッグが唸った。

クウェンティンはあまり自信がなかった。胸からバーベルを押し上げようと筋肉がぶるぶる震えている。だが、力を振り絞って、何とか彼は持ち上げることができた。ゆっくりとではあるが、バーベルを胸から持ちあげ、そしてラックへ掛ける。息を切らせながら、クウェンティンは身体を起こし、両ひじを膝に当てながら、振り返ってグレッグを見た。彼は微笑んでいた。

「よくやったな!」 と彼は言い、クウェンティンも笑顔を返した。

これは毎朝のことである。ふたりは5時に起床し、ジムに行く。外見は重要だ。ふたりとも身体の線を崩したくはない。だが、それ以上に、ふたりとも、よくいる典型的に女性的なホモセクシュアルと混同されたくないと思っていた。クウェンティンもグレッグも、そういう典型例とは異なり、全身、男そのものであった。それ以外の容姿は、ふたりとも決して耐えきれないだろう。ふたりとも、決して女性的な男まがいの人ではなく、男らしい男にそそられるのである。

ふたりが触れあう時間が少しだけ長すぎるとか、友だち以上の関係を伺わせる表情とかがなければ、知らない人が見たら、ふたりを仲の良い友だち同士だと思うだろう。だが、少しでも詳しく観察したら、ふたりの関係には、それをはるかに超える深みがあることが分かるだろう。プライベートな場では、ふたりは普通の恋人同士のように振舞い、公の場では、それを慎んだ。ふたりとも、別にそれを恥ずかしがっていたからではない。単に、ふたりとも、公の場で愛情を見せびらかすタイプではないというだけだった。

ふたりはエクササイズを終え、ジムのロッカールームでシャワーを浴びた。クウェンティンの目はグレッグの逞しいカラダを見つめていた。それに触れたい、両手を筋肉質の胴体に沿って走らせ、下にある、その肉体にふさわしい逞しいペニスに触れたいという気持ちが痛いほどだった。

ふたりとも同じく、男性的な逞しい肉体の一級の典型例ではあるが、寝室では、どちらが上でどちらが下になるかについて、あいまいになることはほとんどない。そして、この時、クウェンティンは恋人のカラダを見ながら、今この場で、グレッグに身体を倒され、お尻を突き出し、激しく貫かれたいと、それだけを想っていたのだった。

だが。時も場所も、今この場所は、それにふさわしくない。クウェンティンは欲望を抑えこみ、シャワーを浴び、服を着るのであった。

*

グレッグには彼の表情が分かっていた。クウェンティンはエッチな気持ちになっている。ふたりは、朝起きた時に素早く楽しむのが普通だった。だが、この日の朝は、ふたりとも若干寝坊をして、その時間がなかったのだった。クウェンティンの顔を見て、グレッグは悔やんだ。

着替えを済まし、ジムを出たふたりはグレッグの車に乗り込み、職場へと車を走らせた。くだらないポップ・ミュージックを流してるラジオ局をいくつか飛ばした後、ニュースを流すラジオ局に落ち着いた。

「……もっとも、彼が大気に化学物質を放出した後、世界中が注目しているところです。科学者たちは、確かに放出されていると確認しましたが、本当にそれがベル博士が主張する効果を持つかどうかは、依然として不明のままです」

ラジオの男がそう言っていた。さらに続けて、

「ベル博士については、元ノーベル賞受賞者であり、著名な遺伝子学者であることは、皆さまの多くがご存じでしょう。まさに、その理由から、この主張を真剣に考える必要があると言えます。彼が主張したようなことができる人がいるとしたら、それはベル博士をおいてはおりません」

その後、ニュースのアナウンサーは別のニュースに移った。グレッグはクウェンティンに顔を向けて訊いた。「何の話だったか、分かる?」

「全然」

「だが、深刻そうだったな。……大気に化学物質? どこだろう」

「分からないよ。多分、大都会じゃないかな……だから多分、僕たちは安全だよ」

「そうは言っても…。ところで……」 とグレッグは言いかけた。

「仕事を休みたい? 君も知ってる通り、僕はそうなんだ。でも、どこかのテロリストの攻撃のせいじゃないよ」 とクウェンティンはほのめかした。「でも、それは仕事を休む言い訳になる」

グレッグはにやりとし、即座にUターンをし、多くの後続車の運転手たちを怒らせた。だが、グレッグは全然気にしない。クウェンティンと同じくらいエッチな気持ちになっていたから。家に戻る時間を無駄にする気は、さらさらないグレッグだった。

ふたりは運が良い。ふたりとも時間が非常にフレキシブルな仕事だったからである。グレッグは医薬品のセールスマンで、クウェンティンはウェブのデザイナだった。なので、気分が高ぶった時は、そしてそういう時はよくあることではあるのだが、ふたりには、そういった衝動を満たすための自由があったのである。ふたりには良い環境だった。

グレッグが可能と思ったよりもはるかに早く、ふたりは家に到着した。急いでいたあまり、グレッグはいくつか交通法規を破った。グレッグは、自分の運転の仕方にクウェンティンが気を揉むのを知っていた。だが、ありがたいことに、この日は彼の恋人は何も言わなかった。多分、グレッグ自身と同じくらいクウェンティンも早く家に帰って始めたいと思っていたからだろう。

ふたりは文字通り、走るように家の中に入った。そしてドアを締めるとすぐに、互いの服を引きちぎるように脱がせ始めた。途中、何度も情熱的なキスを繰り返し、やがてふたりは上半身、裸になっていた。次に靴とズボンが身体から離れる。最後に、ふたりもつれ合うように寝室に向かって進みながら、互いの下着を放り投げ、寝室に入るとふたり抱き合って、ベッドへと倒れ込んだ。互いの唇を密着させたまま、互いに手で相手の逞しい筋肉質の身体をまさぐりあう。

クウェンティンがキスを解いた。そして、グレッグの胴体に沿って小さなキスを繰り返しながら、すでに勃起しているペニスへと降りていく。だが、そこにたどり着いたとき、クウェンティンは、ただ、その近くにキスをするだけにして、グレッグを焦らした。指を1本出して、軽く先端に触れ、茎にはかろうじて触れるかどうかの優しい愛撫をした。

その焦らしは、グレッグが堪らず爆発しそうになるまでしばらく続いた。そして、ようやく、クウェンティンの口がグレッグのペニスを捉え、吸い始めた。最初はゆっくりと、舌でマッサージを加えながら行い、次第にペースを速めていく。2分ほどが経ち、グレッグは射精を迎え、クウェンティンの口の中に発射し、クウェンティンはそれを嬉しそうに受けとめた。

クウェンティンは口の隅からザーメンの滴を垂らしながら、グレッグを見上げ、「今度は僕の番」と言った。

ふたりの愛の行為は、切迫した気持ちに駆られたものではあったが、落ちついた行為とも言えた。交互に順番を守りながら、相手を口で喜ばす。そして最後に、クウェンティンは四つん這いになり、シーツに顔を埋め、グレッグが後ろから彼に挿入して終わる。

これまでの数多くの愛の営みと同様、この日もふたりは、共に疲れ切るまで何時間も続けた。ふたりが知っているあらゆる体位のレパートリー(しかも、その数は多い)を次々と楽しみ、最後には共にぐったりとして終わるのである。

行為が終わり、ふたりは疲れ切ってベッドに横たわっていた。ふたりとも汗まみれで、性的満足に顔を紅潮させていた。グレッグもクウェンティンも黙ったままだった。ふたりとも一緒に寝ているだけで満足していたのである。彼らには、的外れな会話をして時間を過ごす必要がないのである。

ふたりともすっかり忘れていたことがあり、それは仕事をさぼる口実を伝えること。日常生活の問題についての心配事など、頭から消えていた。今のふたりには、愛のことと、ふたり一緒にいることの喜びしかないのである。これを幸福と、人は呼ぶかもしれない。真実の混じり気のない幸福。

*

その同じ日の夜、クウェンティンはラジオで聞いたニュースのことを思い出した。その時までは、愛欲以外のことについては、ほとんど頭になかった彼であった。だが、それが満たされた今、再び、彼の好奇心が頭をもたげ、あのテロリストの攻撃について知りたいと思ったのである。事件を起こした男はベルと言う名前だったのを思い出し、彼はコンピュータに向かい検索を始めた。

最初に出てきたいくつかは、ベル自身についての話だった。最先端の遺伝子学者であり、ノーベル賞受賞者であるという著名な立場を利用して、黒人の優位性を喧伝し、過去の差別に対して報復を求める法案(この法案は、この年、上院と下院の両方で否決されたのであるが)それを支持していることについての記事である。クウェンティンにとっては、こんなに天才的であると同時に完璧に非理性的にもなりえる人間がいることに魅惑的なものすら感じられた。

このベルという人物は、どの人種も他の人種より優れているわけではないと分かっているはずだし、ある人々に、その祖先が行ったことに対する懲罰を下すという考えは明らかに間違っていると分かっているはず。あるいは、ひょっとすると、この人は本当に分かっていないのかもしれないと、たった1年前にベル博士がおこなった熱のこもった演説のビデオを見ながら、クウェンティンは思った。明らかに、ベル博士の怒りの壁は、理性の力でも貫通できないほど強固なもののようだ。

だが、そのいずれも、問題のテロリスト攻撃が何であったかの疑問には答えていなかった。そこでさらに検索を続けた。2分ほど検索を続けると、事件の詳細について述べた記事を見つけた。それを読んでクウェンティンは言葉を失った。その記事には、ベルが報道各社に送った、彼自身による声明文の手紙も載っていた。次のような文章だった。

親愛なる世界の皆さん:

あまりにも長い間、我々アフリカ系アメリカ人は忍耐をし続け、世界が我々を差別することを許し続けてきた。我々はずっと忍耐を続けてきた。だが、とうとう、もはや我慢できなくなった。そこで私は我々を差別してきた皆さんを降格させることを行うことにした。初めは、皆さんは私の言うことを信じないことだろう。それは確かだ。だが、時間が経つにつれ、これが作り話ではないことを理解するはずだ。

私は、私たち人類の間の階層関係に小さな変更を加えることにした。今週初め、私は大気にある生物的作用物質を放出した。検査の結果、この作用物質はすでに世界中の大気に広がっていることが分かっている。

パニックにならないように。私は誰も殺すつもりはない。もっとも、中には殺された方がましだと思う者もいるだろうが。

この作用物質はあるひとつのことだけを行うように設計されている。それは、黒人人種が優位であることを再認識させるということだ。この化学物質は白人男性にしか影響を与えない。

それにしても、この物質はそういう抑圧者どもにどんなことをするのかとお思いだろう。この物質はいくつかのことをもたらす。その変化が起きる時間は、人によって変わるが、恒久的な変化であり、元に戻ることはできない。また純粋に身体的な変化に留まる。

1.白人男性は身体が縮小する。白人女性の身長・体重とほぼ同じ程度になるだろう。この点に関しては個々人にどのような変化が起きるかを予測する方法はほとんどないが、私が発見したところによれば、一般的な傾向として、女性として生れていたらそうなったであろう身体のサイズの範囲に収まることになるだろう(その範囲内でも、小さい方に属することになる可能性が高いが)。

2.白人男性はもともとペニスも睾丸も小さいが、身体の縮小に応じて、それらもより小さくなるだろう。

3.白人男性のアヌスはより柔軟になり、また敏感にもなる。事実上、新しい性器に変わるだろ。

4.声質はより高くなるだろう。

5.腰が膨らみ、一般に、女性の腰と同じ形に変わっていく。

6.乳首がふくらみを持ち、敏感にもなる。

7.最後に、筋肉組織が大きく減少し、皮膚と基本的な顔の形が柔らかみを帯びるようになるだろう。

基本的に、白人男性は、いわゆる男性と女性の間に位置する存在に変わる(どちらかと言えば、かなり女性に近づいた存在ではあるが)。すでに言ったように、こういう変化は恒久的で、元に戻ることはできない。(現在も未来も含め)すべての白人男性は、以上のような性質を示すことになる。

これもすでに述べたことだが、大半の人は、私が言ったことを信じないだろう。少なくとも、実際に変化が始まるまではそうだろう。もっとも変化はかなり近い時期に始まるはずだ。ともあれ、1年後か2年後には、世界はすでに変わっていることだろうし、私に言わせれば、良い方向に変わっているはずである。

親愛を込めて、

オマール・ベル博士

この手紙文の後には、様々な専門家による説明が続いていて、そのいずれも、このような主張の内容は不可能であり、いかなる化合物にも、こんなことは達成できないと述べていた。ある専門家は、これはできそこないのSF小説のプロットのようだとさえ言っていた。

たとえそうであっても、クウェンティンは、全世界の白人男性が女性化した場合の結果について思いをめぐらさざるを得なかった。確かに世界が変わる。しかも、小さな変化とはとても言えない、大変化だろう。自分がゲイの男として、これまでの生涯ずっと克服しようともがいてきた数々の問題は、どうなるのだろう? 自分は、そのような変化を受け入れることができるだろうか? アナルが感じやすくなるという点には、確かに、気を惹かれた。これまでもアナル・セックスを楽しんできたが、これがさらに気持ちよくなる? クウェンティンは、どんなふうになるのだろうと思い、ぶるっと身体を震わせた。

が、すぐに我に返った。これは全部ほら話だ。みんながそう言っている。こんなありえないことについて心配しても意味がない。

彼は自分の仕事に戻った。自分は誰で、どんな人間かは自分で分かっている。自分は男であり、その点はどんなことがあっても変わらないのだ、と。

*

時が経ち、クウェンティンもグレッグもテロリスト攻撃のことは、あまり考えなくなっていた。報道各社すら、1週間ほどすると、この話しはほら話であったとみなし、報道しなくなっていた。少なくとも、誰もが、そう思っていた。だが、3週間が経ち、変化が起き始めたのである。

その運命の朝も、他の朝と同様、グレッグは普通に目が覚めた。クウェンティンはまだ眠っていた。そこでグレッグはクウェンティンを寝かせたままにして、シャワーを浴びに、バスルームに行った。ノブを捻り、水が温かくなるまで待った。適温になった後、シャワーの下に入り、身体を洗い始めた。

多くの人がそうであるように、グレッグもシャワーを浴びながら鼻歌を歌う。しかも、ひどい音痴で。クウェンティンはいつもそのことでグレッグをからかったが、彼はやめることはしなかった。ほとんど頑固と言ってもよい。自分が音痴であることなど気にしないといった感じで。自分が楽しいから、リラックスするために、歌うのである。それのどこが悪いんだ。

だが、その朝、彼はお気に入りの歌を歌い始めた時、少なからず驚いたのだった。

この声は! グレッグは普段は、若干、低音の声質をしている。彼自身が、密かに自慢に思っている点だった。だが、この時、グレッグは耳にした音に驚き、思わず手で口を塞いだのだった。自分の喉から出てきた声が、ソプラノの高音の声だったからである。

グレッグは口を塞いでいた手をよけ、咳払いをし、別の曲を歌ってみた。同じだった! しかも、この声は、(からかいとか女性のモノマネをするときに)普通の男性が出すような、偽物っぽいソプラノではなかった。そうではなく、本物の女性のような声だったのである。グレッグは唖然として、何分か、シャワーの下に突っ立っていた。シャワーのお湯が彼の身体に土砂降りのように降り続けていた。

彼がベル博士が言ったことを思い出すまで、時間はそうかからなかった。声質の変化は、ベル博士が言ったことのひとつだった。本当にありえるのか? 他の変化も必然的に起きるのか?

そして、次の瞬間、グレッグは笑いだした。男性的な笑いを意図したが、出てきた笑い声は女の子っぽいクスクス笑いだった。

もちろん、そんなことはありえないさ。声が変わるのと、他のいろいろな変化はまったく別物なのだ。何から何まで、それほど完全に変わってしまうなんて、馬鹿げている。とは言え、この声は気になる。どうしても無視することはできない。

グレッグはシャワーを終え、腰にタオルを巻いた。そして、恋人がいる寝室へと戻り、ドアを開けた。部屋の中、クウェンティンがベッドに座っているのを見た。頭を垂れて、両ひじを膝に乗せている。クウェンティンが顔を上げた時、グレッグは、その表情から、声の変化がクウェンティンにも生じたことを知った。

顔を上げたクウェンティンが言った。

「君もかい?」

彼の声はグレッグの声ほど甲高くはなかったが、男性の声だと思う人は誰もいないだろう。グレッグは頷いた。

「これ、みんなに起きてると思う?」 グレッグは訊いた。クウェンティンは、グレッグの声が変わったのは予想していたはずであるが、実際にその声を聞いて驚いた。グレッグはクウェンティンの驚いた表情に気づき、クウェンティンは素早く表情を隠した。

「どうしたらいいんだろう?」 クウェンティンが続けた。

「僕たちに何ができる? というか、あらゆる専門家たちが、こんなことありえないと言っていたのに、起きたんだ。だから、医者に行っても大したことできないと思う。……それに、たかが声じゃないか? なあ、そうだろ?」

クウェンティンは頷いたが、納得していない様子だった。

「きっと、元通りにする方法を誰かが見つけるさ。政府は世界で最も優秀な人材を集めて、解決法を研究させている。連中は、きっと見つけるよ」

グレッグは、自分でそう言いながら、クウェンティンを慰めるためというより、むしろ自分自身を納得させるために言っていると分かっていた。グレッグはクウェンティンの隣に腰を降ろし、片腕を彼の肩にかけた。クウェンティンはグレッグにもたれかかった。

クウェンティンは顔を上げ、笑顔で言った。「グレッグ? 君が10代の女の子のような声を出してるの、自分で分かってるか?」

「こいつ、黙れ」 とグレッグは言い、クウェンティンをふざけまじりに押しのけた。

ふたりは何秒か声をあげて笑い、その後、もつれ合うようにしてベッドに倒れ込んだ。ふたり横たわりながら、グレッグは言った。

「でも、真面目な話、世界の終わりが来たというわけじゃないんだ。ただ、声が変わったというだけなんだ。僕たちは、前と同じ人間だよ。全然変わっていない」

*

声というのは不思議なものである。確かに、単なる声にすぎない。だが声は非常に多くのことに影響を与える。しかも、非常に繊細な影響を。心理的に見て、甲高い声というものは弱さを連想させ、その後、そのような声の持ち主を、より従属的な気持ちにさせることになるということを理解するのは難しくないだろう。

今、そのような印象のいずれも、人々の心の前面に出ているわけではない。だが、それは確かに存在しており、各人の意識から隠れたところで顔を出しているのである。そして、それゆえ、突然、非常に公の場で、非常にあからさまな形で女性性を見せざるを得ない状況に押しやられた白人男性たちの多くは、自分たちを、周囲の人々が以前とは異なったふうに扱う傾向にあることを知ったのである。白人男性は、何かの責任を持たされたり、何かをリードする立場になる可能性が少なくなっていた。たいていの場合、言葉で反論することは避けられるようになった(もっとも、逆に以前より攻撃的になるという形の補完をした者もいることにいるが)。そのように、多くの白人男性の性質が、少しずつ変化し始めたのである。

たいして大きなことではない。声というものは。だが、声は、小さな点ではあるが、強力なものでもあるのである。

白人男性のイメージが、たった1年足らずで、こうも劇的に変化してしまったことの理由として、声以外の変化にしがみつく人もいるだろう。だが、やはり、声が基本なのである。声から変化が始まった。が、声では終わらないのは確かだろう。

声が変わってから2週間後の朝だった。またシャワーを浴びていた時だった。グレッグは何か様子が変であることに気づいたのだった。陰毛が全部抜けてしまっていたのである。グレッグもクウェンティンも相手がつるつるの肌をしているのを好む。なので、ふたりは定期的に体毛を剃っていた。ただし、ふたりとも陰毛は残していた。それなのに…。

グレッグは、排水溝に毛が渦巻くのを見て、小さな悲鳴を上げた。次の変化が生じたのだと。

彼は素早く泡を流し、シャワーから出た。鏡を見て、心配したことが現実化しているのを見た。顔には、まゆ毛のほかはまるっきり体毛がなくなっていた。クウェンティンも同じ変化に直面しているだろうと思った。

ベル博士の警告が現実化しつつあるのか? そんなことがありえるのか? 政府は、ありえないと人々に言い続けている。何も心配することはないのだと。だが、グレッグは、完全に無毛になっている自分の身体を見ながら、政府は、変化しつつある世界に平穏を保つための手段を講じているにすぎないのではないかと思わざるを得ないのであった。

バスルームを出て着替えをしようとした時、クウェンティンが目を覚ました。グレッグは、この出来事のことを話し、彼に訊いた。

「どう思う?」

「この件について? 分からない。それほど大きなことでもなさそうだ。少なくとも僕たちにとっては。いや、これからは毛剃りをしなくても済むわけだろう? だったら大きなことかも」

「いや、何も体毛のことだけについて話してるわけじゃないのは知ってるだろ、クウェンティン? 他の変化についてはどうなんだろう? 例えば……」

クウェンティンは立ち上がって、先を言おうとするグレッグを遮った。

「なるようにしかならないよ。僕たちにできることは、ほとんどないんだから。そうだろ? ところで、さっきの返事はジョークだからね」

グレッグが返事しようとするのを見て、クウェンティンはさらに続けた。

「僕たちが身体から筋肉が落ちたからって、何だと言うんだ。僕たちの身体が変化したって気にするもんか。身体が変わっても、僕たちは前と同じ人間なんだから。愛しあってるふたりなんだから」

「でも僕たちのペニスは? もし……」 とグレッグは声を途切れさせた。グレッグは、声が変わって以来、ずっと、このひとつの変化について心配を続けていた。小さなペニス? クウェンティンを喜ばすことができなくなったら、どうなるのだろう? クウェンティンは僕の元を離れてしまうだろうか? あるいは、さらに悪いこととしては、クウェンティンは僕の元に留まるものの、いつも満足しておらず、不幸のままでいることになるのだろうか?

「寂しくならないと言ったらウソになると思う。でも、君に知っててほしいことだけど、僕たちが一緒にいるのは、単なるセックス以上の理由からだからね。そうだろ?」 とクウェンティンは訊いた。

グレッグは、おずおずと同意した。ちゃんとそれは分かってる。頭の中では、ちゃんと。でも、何か自分の中に、明らかに男性的な何かがあって、何ヶ月かのうちに自分が恋人を喜ばせることができなくなるかもしれない事実を認めることができないのであった。とは言え、グレッグは、自分の不能さでクウェンティンを悩ませたいとは思っていない。だからグレッグは、この手のことを考えることはやめ、心の奥底にしまいこむことにした。

「だからと言って…」とクウェンティンは、グレッグの腰からタオルを剥がしながら、続けた。「だからと言って、それまでの間も、僕たちが持ってるモノを楽しむことができないということにはならないよね」

クウェンティンの手はグレッグのペニスを探り当て、それを握り、優しく擦った。そしてグレッグをベッドへと導いた。

ベッドまで来ると、クウェンティンはグレッグを押し倒し、彼の上に覆いかぶさった。ふたりはもつれ合いながらキスを始めた。クウェンティンは股間をグレッグの勃起しつつあるペニスに擦りつけた。

そしてふたりは愛しあった。その間、心配事は一切、ふたりの頭から消えていた。ふたりだけの世界。その時、ふたりが必要としていたのは、それだけだった。

*

次の他の変化に気づくまで、ほぼ1ヵ月がすぎた。今度は、ふたりがジムに行き、いつものようにウェイト・リフティングをしていた時だった。クウェンティンが、いつもの重量を、普段の半分の回数すらリフトできないことに気づいたのである。振り返って思い出してみると、確かに、徐々に筋力が衰えていた。だが、クウェンティンは、それをストレスのせいか、あるいは、よくある小さな変動にすぎないと、無視していたのだった。

だが、この時、胸からバーベルを持ち上げようとあがきながら、はっきりと自覚した。自分は弱くなっている。それはグレッグも同じだった。ふたりとも、いつも、同じウェイトを同じ回数、行っていたから。クウェンティンは、エクササイズを終え、ウェイトを棚に戻し、立ち上がった。

「ちょっと気分がすぐれないんだ」 

クウェンティンは、そうグレッグに言い、そそくさとロッカールームに入った。運動着を脱ぎ、鏡の前に立った。はっきりと目に見えて分かるわけではないが、自分の身体である。はっきりと分かった。彼には、筋肉が大きくやせ細っているのが見えた。前なら、筋肉が隆起し、その隆起の間に深々と谷間ができていたのに……確かに、隆起は見えるが、前ほど隆々としたものではない。確実に筋肉が落ちている。

身長はどうだろう? これははっきりとは分からなかった。クウェンティンは背筋を伸ばして立ち、周囲の物と比較し、相対的にどうだったかを思い出そうとした。ああ、やっぱり。これは想像ではないのだ。実際に、背が低くなっている。多分、3センチから5センチくらい。前は183センチはあったのだが。

ひと月前、クウェンティンはグレッグの前では、何でもないといった体面を繕った、だが、実際は、心の中、全然穏やかではなかった。

クウェンティンは、これまでずっと、自分の身体の大きさに頼ってきたところがあった。この身体が彼に自信を与えていた。もちろん、意識の上では、逞しい身体だけが自信の元であったわけではないが、逞しい身体が彼の個性の中核を占めていたのは事実だった。

したがって、その筋肉が失われかかっている今、彼がトイレの個室に入り、便器にうずくまるように座り、声も立てずに、ひっそりと頬を涙で濡らしているのを見ても、その理由を理解するのは、難しいことではない、

だが、クウェンティン自身にすら、その涙の理由ははっきりと分かっていたわけではない。彼は、ただ、彼の世界がぼろぼろと砕け落ちていくような気持ちだっただけである。彼は便器に座ったまま、前のドアを見つめながら、ほぼ5分間、涙を流していた。そして、馴染みのある声が彼に問うのを聞いた。

「クウェンティン? ここにいるのか?」

グレッグの声を聞き、クウェンティンは鼻を啜り、顔から涙をぬぐった。

「ああ、ちょっとだけ」

クウェンティンは立ち上がり、トイレのドアを開けた。そしてすぐに洗面台に行き、顔に水を当てて洗い始めた。グレッグに顔を見られないように注意した。こんな顔を見せたら、性格の弱さをあからさまに見せてしまうようなものだ。そうクウェンティンは思っていた。そんな顔を恋人に見せるわけにはいかない。

クウェンティンは肩に手をあてられるのを感じた。優しく擦ってくれている。顔を上げると、そこにはグレッグがいた。

「大丈夫か?」

「ああ、ちょっと気分が良くなかっただけだよ」 とクウェンティンは嘘をついた。

「本当か?」 グレッグはしつこく聞いた。

「ちょっと、吐き気がしてね」

「なんなら、今日は仕事を休んでもいいんじゃないか? そうだよ。家に戻ろう。そうすれば、明日には気分が良くなっているさ」 とグレッグは提案した。

「そうだね」

クウェンティンはそれしか言わなかった。明日になっても、この悲しみが癒えているわけでは決してないのは分かっていた。これは、永遠に治らないし、進行が止まるわけでもないのだ。

*

ふたりがジムに行ったのは、その日が最後だった。クウェンティンが病気でないことは、グレッグも知っている。彼の恋人がトイレの個室に駆けこんだのは吐き気のせいではないことに気づいていた。涙の跡が見えていた。彼はクウェンティンのことを充分知っている。目に浮かぶ恐怖の色に気づかぬはずはなかった。それよりも、グレッグ自身、同じ感覚を味わっていたから。

だが、これは一体、何を意味するのだろう? 疑問が心の奥で燃え盛った。もし、気の狂ったベル博士が作ったモノのせいで、自分からまさに男性性の部分だけ奪われるのだとしたら、その後の自分はどうなるのだろうか? クウェンティンはどうなるのだろうか? そして、最も重要なこととして、ふたりの関係に対してどんな意味を持つことになるのだろうか? ふたりとも、そんな苦悩と変化の時間に耐えきれるだろうか?

そうあってほしいとグレッグは思った。いや、嘘だ。期待はしていない。自覚している。これまでふたりはずっと一緒だった。ゲイだということで、家族から疎外されて、知らない人たちにからかわれ、友だちだと思っていた人々から変な目で見られても、ふたり、耐え続けてきたのだ。そして、堂々とカミングアウトしたのだ。今度のことも、これまで歩んできた道に、また別の障害物が現れただけだ。そして、障害物は何であれ、ふたりで乗り越えて行くのだ。

そう思いながら、グレッグは強くなろうと決心した。その役割を担ってきたのは、ずっとクウェンティンの方だった。彼は精神的に非常にタフだった。いかなることにも負けることがない。彼は、自らは恥ずかしがって言わないが、人生における自分の立ち位置をいつも心得ていた。この人生が彼にもたらすものを、しっかりと受けとめ、獲得し、思った道を進む。それがクウェンティンだ。グレッグは、自分なら、クウェンティンが経験したことに耐えきれないだろうと思った。だが、今は違う。自分も強くなるんだ。今度は俺の番だ。

グレッグは思った。クウェンティンは人生で初めて、自分の立ち位置がどこか、自分が何者になろうとしているのか、分からなくなっていると。それに恐怖を感じている。それがグレッグには見えていた。

クウェンティンのそばに行き、大丈夫だよと言いたい気持ちがいっぱいだった。だが、できない。多分、嘘をついて、すべてがうまくいくとクウェンティンに話すことができなかったから。本当にうまくいくか分からなかったから。もっと言えば、これからの何ヶ月は、ふたりにとって、極度に過酷な時間になるだろうと思っていた。

なので、グレッグは自分自身が抱く恐怖を隠すことにした。彼の能力では、そうすることが、クウェンティンを慰める限界だった。グレッグは恐怖心を奥深くに埋め、決して陽が当らないところにしまいこんだ。クウェンティンの心にはもっと注意を払うことにしよう。そして、ジムのような、彼を当惑させる状況におちいることがないよう、巧く導いてあげることにしよう。

グレッグは自分の筋肉も減っていることに、すでに気づいていた。ふたりとも肉体が縮小していることに気づいていた。彼自身、13キロも体重が落ちていたし、クウェンティンも似た量、落ちているだろうと思っていた。だが、クウェンティンの場合、一気にすべてに気づかされたのだろう。その様子だった。これは、彼には痛撃だったろう。そして、その日のジムで、クウェンティンの中の何かが壊れてしまったのだ。それは決して直らない。

その夜、グレッグはひとりベッドの中、恋人の心の痛みを悲しんで、さめざめと泣きつづけた。

*

心の痛み、それはまったくユニークな感情に思える。その痛みの元がよりなじみ深いものになるにつれ、時間を経て、痛みは最終的には薄れて行くが、完全に私たちの中から痛みが消えるということは決してない。それは、続く数ヶ月におけるクウェンティンについてもあてはまった。

彼は、世界中の白人男性同様、その後も変化し続け、自分のおかれた環境の現実に順応していった。当初感じた、恐怖感に由来する鋭い心の痛みは、やがて、鈍いズキズキした痛みへと変わった。

クウェンティンが恐れているものは、数多く存在した。

グレッグは今も自分に心を惹かれてくれているのだろうか? 世界は、この変化にどういった反応を示すのだろうか? 友人や同僚たちはどうなのだろうか? 例の生物化合物が少し変えられていて、ベル博士が意図したよりも悪い変化が出てきたら、どうしたらよいのか? 

だが、やはり、一番の心配はグレッグのことだった。

ベッドでは、グレッグが支配的である。これは確かだ。クウェンティン自身は正確には従属的とは言えなかったが、グレッグが支配的であることが、ふたりが惹かれあった中核部分にあったのは本当だ。日常生活では、ふたりの間で継続的に主導権争いがある。だが、寝室ではふたりの役割は明瞭だった。クウェンティンが下で、グレッグが上なのである。その他の点では、ふたりは支配力を求めて競い合った。

もちろんグレッグは隠そうとしていたが、身体の変化は、クウェンティンの精神に影響を与えたのとちょうど同じように、グレッグ自身の精神にも影響を与えていた。彼は、様々な局面で支配的立場を主張しようともがいていた。だが、日増しに自信が揺らぎ始め、とうとう、ほぼすべてのことについて、決定を下そうとしても疑問を感じてしまうまでになっていた。決めようとしても、ためらってしまう。そして、毎日、その状態が悪化していく。

やせ細り、身体が縮小していくのにつれて、グレッグはますます自分の意見を引き下げるようになった。クウェンティンは、グレッグが夜に寝室でひとり啜り泣きしているのを知っていた。そんな時、クウェンティンは、寝室に入って恋人を慰めてあげたいと切に思うのであるが、グレッグは弱みを見せるのを拒むだろうとも分かっていた。たとえ、頬に涙を伝わせていても、頑として認めないだろうと。

いや、それも違う。恋人であり親友であるグレッグを、本当に、心から助けてあげたいと思っているが、そういうふうにすると、かえって、より多くの心の痛みを与えてしまうことにしかならないのだ。

そう思うがゆえ、クウェンティンは、悲しみにくれるグレッグを何も言わずにそっとしていたのだった。時がたてば、そしてこの変化に慣れていけば、心理的影響は弱まっていくだろう。そう期待しながら、ただ黙って見守ることにしたのだった。

日々が過ぎ、さらに2ヶ月が過ぎた。

ふたりの体格は落ち着き始めた。クウェンティンは、結局、身長おおよそ162センチ、体重52キロになった。一方のグレッグは、前はクウェンティンより若干大きかったのだが、結局、身長155センチ、体重47キロになった。グレッグは、見るからに、ほっそりとして、繊細な印象に変わっていた。

そして、ベル博士の手紙が警告していたように、ふたりの体形も大きく変わっていた。男性的なきゅっと引き締まったお尻や幅広の肩は姿を消した。その代わりに、女性的な細いウェスト、幅広の腰、丸いお尻そして小さな肩が現れていた。

ある夜、クウェンティンはベッドで横たわりながら、ベッドに入る支度をしているグレッグを見ていた。グレッグはだぶだぶのトランクスだけを履いた姿でいた。そんな彼の姿をクウェンティンはじっくりと観察した。

乳房がないことを無視したら、本当に、小柄な女性の身体としか思えなかった。お尻は小ぶりとは言え、丸く盛り上がり、お腹のあたりも若干曲線を帯びていて、女性的だった。そしてクウェンティン自身、同じような女性的体つきになっているのを知っていた。

グレッグの身体が良くないというのではなかった。そうではなく、今のグレッグの身体はクウェンティンが好む身体ではなくなっているということ。クウェンティンは、大きくて逞しい身体をした男が好きなのだ。「大きくて逞しい」は、今のグレッグの身体を描写するのに使う形容詞とはもっともかけ離れた言葉だろう(それを言ったら、クウェンティンの身体についても同じなのだが)。

ベッドに横たわりながらグレッグを見ていたクウェンティンは、あることに気づき、何かに頭を強打された気持ちになった。

とはいえ、これは突然起きたことではない。ふたりは、この4週間、まったくセックスをしていなかった。だが、この瞬間、クウェンティンは、自分が自分の恋人にまったく性的に魅力を感じていないことに気づいたのだった。これに気づき、彼は恐怖を感じた。そして、こんなことは忘れようと思った。

グレッグもベッドに入り、横にきたのを受けて、クウェンティンは、唯一すべきことと彼が思うことを行った。自分がグレッグに惹かれていないという考えを頭の中から消したかった。なので、自分は間違っていると証明しようと思ったのである。

両手をグレッグのお腹の方へ伸ばし、滑らかで柔らかい肌に触れた。それから指をお腹の曲線に沿って軽く走らせた。身体を起こし、グレッグの胸に顔を寄せ、彼の膨らんだ乳首にキスをし、舌先でチロチロと弾いた。

その努力は報われ、小さな喘ぎ声が聞こえてくる。女の子のような喘ぎ声。

クウェンティンは小刻みにキスを続けながら、グレッグの乳首から首筋へと上がった。そして、ふたりの唇が触れあう。ふたりは情熱的に唇を密着させた。クウェンティンの手は、グレッグのトランクスの中へと忍び込んだ。

グレッグのペニスを見つけるのに少し時間がかかってしまった(こんなに小さいとは!)。クウェンティンはようやく見つけた、その柔らかいモノをいじり始めた。何分か擦り続けたが、実りはなかった。グレッグはとうとう、イライラした溜息を出し、クウェンティンを押しのけた、くるりと寝返り、向こうを向いた。クウェンティンはグレッグが小さく啜り泣く声を聞いた。

「どうしたの? 僕たちはてっきり……」 とクウェンティンは話し始めた。

「ダメなんだよ! クウェンティン、君も知ってるはずだ。もう、勃起できないんだ。それに勃起したとして、僕に何ができる? たった5センチだぞ? 君は何も感じないだろう」

「そんなの気にしないよ。ただ僕は……」

「でも、僕が気にする!」 グレッグは荒い声でそう言い、クウェンティンの方に向き直った。「こんな男がどこにいるんだ? 僕は好きな人にすら……」 彼の声は小さくなった。

クウェンティンは人差し指を立て、グレッグの唇に当てた。

「ふたりで切り抜けるんだ」

「でも僕は……」

「同じことを言って? ふたりで切り抜けるんだ」

「ふたりで切り抜ける」 とグレッグはくぐもった声で言った。

じゃあと、クウェンティンは、わざと無理に笑顔になった。「アレを使わなくても、何かちょっと楽しむ方法を見つけられると思うよ」

クウェンティンはグレッグの上に這い上がり、彼の脚の間にひざまずいた。そうしてグレッグのトランクスを引っぱり、脱がし、それから頭を下げて、グレッグのペニスを口に含んだ。

柔らかいままだったが、精一杯、舐め吸いを続けた。何分か続けたとき、クウェンティンはあることを思い出した。あのベル博士の声明文だ。アヌスが前より敏感になると言っていた。そこで彼は舐め吸いを続けながらも、指を出し、グレッグの中に滑り込ませた。

「あぁッ!」 とグレッグが喘ぎ、肛門をヒクつかせた。クウェンティンの指を絞る動きをしている。

クウェンティンは指を出しては入れを繰り返した。何かヌルヌルしたものを感じた。多分、天然の潤滑液だろうと思った。そして、今度は指を2本にした。グレッグのペニスが反応し、勃起して、5センチほどになった。

その、たった2分後、グレッグはクウェンティンの口の中に射精した。クウェンティンは驚いた。その味が、以前の塩辛い味ではなかったから。彼のザーメンは、甘かったと言っても良かった。

クウェンティンはグレッグの上に覆いかぶさり、グレッグの腕の中に抱かれた。

「分かっただろう? 方法を見つけられるって、僕が言った通り」

クウェンティンはそう言って、恋人にキスをした。それから、仰向けになって脚を広げた。

「今度は君の番。君ができることをして見せてくれ。セクシーなグレッグ!」

セクシーな、とは言ったけれど、クウェンティンは正直ではなかった。グレッグのことをとても魅力的だと思う人がいるのは知っているけど、クウェンティン自身は、そう思っていない。それでも、彼は嘘をついた。こういう嘘をつくことに慣れていくのだろうと思った。

グレッグはニヤリと笑い、クウェンティンにしてもらったことと同じことをしてあげた。グレッグの細い指をアヌスに入れられながら、クウェンティンは思った。確かに、これには慣れていくことができそうだと。

*

「でも、着るものが何もないよ!」とクウェンティンは文句を言った。「持ってる服は全部、3倍から4倍、大きすぎるし、30センチは長いんだ」

「じゃあ、買い物に行こう」 とグレッグ。

「でも、何を? 子供服のブラウスか?」 クウェンティンは皮肉っぽい声を上げた。

「そんなダブダブの服じゃないヤツな」

「はいはい、ありがとう! でも、真面目に言って、何を着たらいいんだろう?」

「多分、婦人服しか合うものがないんじゃないかな」とクウェンティンが言った。

実際、クウェンティンも、質問する前に、その答えを知っていた。自分の体形を知っていれば、答えは壁に書かれているようなものだ。

クウェンティンは、許容できる恥ずかしさについてのレベルは結構、高い。だが、婦人服売り場で服を買うというのは彼にとってすら、限界を超えている。そのことをグレッグに伝えると、グレッグはそっけない返事をした。

「この問題を抱えてるのは君だけじゃないのは知ってるだろ? 世界中のすべての白人男が似た問題に直面してるんだ。君がそこで買い物しても目立つわけじゃないと思うけどなあ。でも、そんなに気になるなら、オンライン・ショッピングをしたらいいんじゃないかな。そうして、自分で選ぶ。オンラインなら、まさにこの問題を扱ってるところがあると思うよ」

クウェンティンはグレッグの言うことが正しいと知っていた。こんなにありふれたことになっていることについて、恥ずかしがるのは理性的じゃない。だけど、それでも、自分では、できそうもない。そこで彼は、グレッグのアドバイスに従って、パソコンの前に座った。検索エンジンを出し、「白人男性と衣類」というキーワードを打ち込んだ。

最初に出てきたのは、女性化した白人男性の画像で、あからさまに女性的な衣類を着てるものだった。ピチピチのジーンズやカプリ・パンツ(参考)やランジェリからスカートやドレスに至るまでの数々の衣類を着ている。クウェンティンは、これは何か奇抜ファッションだろうと思い、それらをスキップした。

そうしていくと、彼は「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された記事に出会った。それにはこう書かれてあった。

* * * * *

「調整するということ:すべてのボイたちが知っておくべきことのいくつか」 イボンヌ・ハリス著

数ヶ月前、オマール・ベル博士が大気に生物化学物質を放出し、それはこの何ヶ月かに渡って、私たちの白人男性に対する従来の考え方を効果的に根絶することになりました。男性的ないかにもアメリカ男といった存在は消滅し、その代わりに、小柄な(通常、身長165センチに満たない)男の子と女性の中間に位置する存在が出現したのです。ですが、そのことを改めて言う必要はないでしょう。あなたがこの記事を読んでるとしたら、自分がどう変わってしまったかを一番よく知っているのはあなた自身であるから。この記事の目的は、情報提供にあります。(以降、この記事ではボイと呼ぶ)白人男性たちが、依然として男性のように振舞おうとあくせくしている様子がいまだに続いています。それは間違いなのです。あなたたちはもはや男性ではありません。ボイなのです。それを踏まえて、この記事では、いくつかの主要な問題点に取り組むことにします。それは挙措、セックス(イヤラシイ!)、そして服装という3つの問題です。それでは、前置きはこのくらいにして、早速、本論に入りましょう。

すでに述べたように、最初の問題は挙措についてです。どういう意味だろうかと思うかもしれません。まあ、「挙措」とは態度、振舞いのことを言う気取った用語ですが、それ以上のことも意味します。挙措には、普段の姿勢から歩き方に至るあらゆることが含まれます。ボイたちが、これまでと違ったふうに振る舞うことを学ばなければいけないというのは、奇妙に思われるかもしれませんが、でも、率直に言って、あなた方が男性のように振舞おうとするのは、マヌケにしか見えないのです。10代の若い娘が、その父親のように振舞おうとする姿を想像してみるとよいでしょう。まさにそれと同じです。ボイが男性のように大股で歩くのを見ると、まさにそれと同じくらい奇妙に見えるものなのです。

ボイは、男性とは異なるがゆえに、男性とは異なるふうに振る舞うべきなのです。この点はいくら強調しても足りません。というわけで、外出しようとするあなたたちボイに、いくつか指針を提供しましょう。まず第1に、背中を少し反らし続けること。その姿勢を取ると、あなたのお尻を完璧に愛しいものに見せることになります。第2に、腰を少し揺らすようにすること。男性はそれが好きです(これについては後で詳しく述べます)。第3に、怖がらず、エアロビクスを行うこと。皆さんは身体の線を保つ必要があります。太ったボイは孤独なボイになってしまいます。個人的にはストリッパーのエアロビを勧めますが、他のどんなエアロビでもよいでしょう。ですが、私が提供する指針で一番重要なものは、次のことです。女性をよく観察し、彼女たちをまねること。皆さんは、女性にはるかに近い存在となっているのです(しかも、性的な目標もきわめて類似している。これについても、やはり、後で詳しく述べます)。そして、女性たちは皆さんよりはるかに以前から、これを実行してきている。なので、ボイたち、私たちを観察し、学習するのです!

触れなければならないふたつ目の問題は、服装に関する問題です。(あなたが、元々、発育がよくなかった男子だった場合は別ですが)みなさんの大半は、おそらく、持っている服のすべてが、もはや自分に合わないことに気づいていることでしょう。ですから、皆さんは、すべて新しい服を買い直す必要があります。たいていのデパートでは、直接ボイを対象にして、新しいセクションを開いています。なので、そこから始めるのが良いでしょう。ですが、予算に限りがあるならば、勇気を持って、あなたのサイズに近いガールフレンド、妻、あるいは姉妹から服を借りるとよいでしょう。

ただし、いくつか注意すべき点があります。まずは下着から話しましょう。ボイはパンティを履くこと。そうです。ブリーフやトランクスではありません。パンティです。みなさんの体形は、パンティを履くようになっているのです。パンティを履くことを好きになるように。私も、新しいセクシーなパンティを履くのが大好きです。それを履くと、自分に自信がみなぎるのを感じるものなのです。ボイの中には自分の女性性を完璧に受け入れ、ブラジャーをつけ始めた人もいます。そのようなボイたちの適応力に、私は拍手をします。ですが、私の個人的な意見を言わせていただければ、ボイはブラをつけるべきではありません。どの道、ボイには乳房がないのですから(今の時点では、なのかもしれませんが。気の狂ったベル博士が何をしたか、知ってる人は誰もいませんし)。皆さんは、女の子でもありません。ボイなのです。ボイには乳房はありません。ゆえにブラの必要はないのです。

アウターに関して言うと、基本的に女の子が着る服なら何でも適切と言えるでしょう。スカートからジーンズ、ブラウスからドレスに至るまで何でもよいでしょう。着てみて似合うと思ったら、着るべきです。注意すべきは一つだけ。(たとえサイズがかろうじて合うような物であっても)紳士服を着たら変に見えるということを忘れないこと。皆さんは、決して男性のようにはなれないのです。ですから、婦人服や、ボイ、あるいは子供服のセクションにある服に限定すべきなのです。

最後に、セックスについて少しだけ触れたいと思います。もし、この話題に関して嫌な感じがしたら、即刻、読むのを止めてください。

よろしいですか? まだ、読み続けていますね? よろしい。

ボイの皆さんは、性器に関してサイズが減少したことに気づいているかもしれません。この変化に気恥ずかしさを感じた人も多いことでしょう。でも、そんな恥ずかしがることはないのです! ボイが小さなペニスをしていることは完全に自然なことなのです。最近の研究によると、白人男性の平均のペニスサイズは4センチ程度になっており、しかも、それより小さいことも珍しくはありません(実際、私の夫は、2センチ半にも達しません。これ以上ないほどキュートです)。ボイの皆さん、心配しないように。そんなペニスのサイズなんて、もはや、それほど重要なことではなくなっているのです。そのわけをお話ししましょう。

皆さんは、以前に比べて、アヌスがかなり感じやすくなっていることに気づいているかもしれません。皆さんの身体はそういうふうにできているのです。その部分を、新しい性器だと考えるようにしましょう。女性にはバギナがあります。男性にはペニスがあります。そして、ボイにはアヌスがあるのです。恐れずに、その新しい性器を試してみるとよいでしょう。その気があったら、そこの性能を外の世界で試してみるのもよいでしょう。ガールフレンドから(あるいは、気兼ねなく言えるなら、姉や妹から)バイブを借りるのです。そして、街に出かけるのです。すぐに、そこが「まさに天国みたい」に感じることでしょう(これは私の夫の言葉です)。

さて、皆さんの人生にとって最も大きな変化となることが、次に控えています。多分すでに予想してることでしょう。そうです。ボイは男性と一緒になるべきなのです。これは簡単な科学です。ボイは女性とほぼ同一のフェロモンを分泌します。それに、男性のフェロモンに晒されると、ボイは女性とほぼ同一の反応を示すことも研究で明らかになっています。

これが何を意味するか? ボイの皆さん、気を悪くしないでください。ですが、皆さんは男性に惹かれるようになっているのです。もっとも、男性の方も皆さんに惹かれるようになっているのです。そのような身体の要求に抵抗したければ、してもよいでしょう。ですが、これは自然なことなのです。この事実と、皆さんが感じることができる新しい性器を持っている事実を組み合わせてみれば、なぜ、ベル博士があの物質を放出して以来、男性とボイのカップルが400%も増えたのか、その理由が分かるでしょう。

ボイにとって、ヘテロセクシュアルであるということは、男性を好むということを意味するのです。そのことを拒むボイも多数います。そのようなボイは、基本的にホモセクシュアル(つまりレズビアン)であることを意味します。あるいは、少なくとも様々な実生活上の理由から、レズビアンになっているということを意味します。多くの女性が、変化の前は、男性と結婚していた(または男性のガールフレンドになっていた)わけですから、変化後もその関係を続けるとなれば、ボイはレズビアンになることになるわけです。

一応、その事実を念頭に置いてですが、そういうボイの皆さんには近所の「アダルト・ストア」に行き、何か…突き刺すもの…を探すことをお勧めします。あなたもあなたのパートナーも共に同じ種類の欲求を持つので、おふたりが共に満足できるようなものを手元に置いておくことがベストでしょう。

これを読んでる皆さんの中には、まだ拒絶状態でいる人も多いと思います。厳しいことを告げる時が来たかもしれません。どうか、鏡を見てください。何が見えますか? その姿は男性ですか? 決してそうではないでしょう。その姿は女性ですか? いいえ、違う。鏡の中からボイがあなたを見ているはずです。ボイはボイらしく行動する時が来たのです。

カウンセリングが必要な人もいるでしょう。それは良いことです。政府は、そのような要求に備えて、国中にカウンセリング・センターを設置しました。そこに行くこと。そして新しい自分を受け入れる方法を学ぶことです。この記事が役に立てばと期待しています。それでは今日はここまで。ありがとう。次週は、パンティを履くことが、あなたに人間としてどのようなことを教えるかについてお話します。

* * * * *

クウェンティンは、この記事を読んで、その情報で頭がいっぱいになるのを感じた。彼もグレッグも、ほぼ6年間、仕事で有給休暇を取っていなかったので、ふたりともかなりの休暇権利を溜めこんでいた。先月は、それを利用して、変化に対応するため仕事を休んでいた。ふたりとも、大半の時間はアパートに引きこもって一緒に過ごし、古い映画を見たりしていた(加えて、気持ちの点でも効果の点でも、結局はレズビアン・セックスと同じと言えるようなことも、たくさん)。ふたりが外の世界に出て行くのは、近所のスーパーマーケットに行くことくらい。

そのため、世界の変化をほとんど知らなかったと言える。

世界は、たった一ヶ月で、こんなに変わりえるものなのだろうか? クウェンティンはほとんど信じられなかった。もう一度、記事を読みなおして、これが巧妙なフェイク記事ではないことを確かめた。やっぱり、そんなデマ記事じゃない。「ニューヨーク・タイムズ」に実際に出た記事だし、このコラムニストは毎週記事を書いている人だ。

でも、これは何を意味するのだろう? 新しい服を買わなければならないのは分かった。今の服は全部、身体に会わない。でも、ドレスやスカートや女性用ランジェリを買うことになる?

彼はパソコンの前に延々と座ったまま考え続けた。そして、ようやく、ある結論に達した。この記事は別として、世の中がどうなってるか自分自身の目で確かめてみる必要があると。それをするのに、モール以外に適切な場所などあるだろうか?

彼はジーンズを出し、ベルトをきつく締めた。それにTシャツを着た。今はダブダブのバギーなTシャツにしか見えないが。そして、グレッグに、行ってきますのキスをした後、モールへと出かけた。

*

車から降りたのとほぼ同時に、クウェンティンは、あの記事は正しかったと分かった。いたるところに婦人服を着ていると思われるボイがいた。そして、そのかなり多数が、黒人男性と腕を組んでいた。

生物エージェントが大気に放出されてから、たった6ヶ月しか経っていない。なのに、すでに、白人男性は、まさにベル博士が想像した姿に変わっている。女性的なナヨナヨした男たち。白人男性の時代は終焉していた。その代わりに、白人ボイの時代が勃興していた。

頭がくらくらするのを感じながら、クウェンティンはモールの中を歩き進んだ。女性、ボイ、そして男性の3種類の人々。みな、普通に振る舞っている。ボイがスカートやドレスや、その他の婦人服を着ていても、誰もじろじろ見たりしない。振り返られることすらないのが大半だ。その逆に、クウェンティンの方を、不快そうな嫌な目で見る人がいた。そんな目で見る人にとっては、クウェンティンは、昔のジェンダーにふさわしい(しかも、大きすぎる)服しか着られない、世捨て人となっていた。

彼は店に入り、特別に「ボイ服」とのサインがある売り場があるのを見た。そして、素早く、そこへ向かい、様々な衣類を調べ始めた。それを始めてから、2分もしないうちに、セールス・ボイが近づいてきて、クウェンティンに声をかけた。

「先延ばししてきたんでしょ?」

「えぇ?」

「新しい服を買うのを。それを延期してきたんですよね? 私も最初はそうだったから」とセールス・ボイが答えた。

クウェンティンは溜息をつき、返事した。「ああ、たぶん。実を言うと、このひと月、ずっと家に閉じこもっていたんだ。そして、世の中がどれだけ変わったか、知らなかったんだ」

「ちょっとシュールな感じ?」とセールス・ボイ。

「ああ、まあ少なくとも、不思議な感じと言えるかも。こんな短期間に、こんなにすべてが大きく変わってしまったなんて」

「まあちょっとね」とボイは言った。「でも、実際は、そんなに驚くべきことでもないのよ。私は心理学を専攻している大学院生なのだけど、ちょっと考えてみれば、理解できると思うわ。私たちは男性に惹かれる。男性は女性が好き。そして、これが……」とボイは、自分が着てるスカートとブラウスを指差し、「これが、女性が着るもの。ゆえに、私たちは、こういう服を着たくなる。加えて、私たちが欲求を追及しても、嫌な顔で見られないという事実もあるわ。そうすると、物事が急速に変化したのを理解するのは難しくないんじゃない?」

クウェンティンは、このボイの論理に頷いた。ボイはさらに続けた。

「それより何より、婦人服や、そのボイ・バージョンの服は、女性的な魅力を見せるように作られているの。だから、そういう服の方が紳士服より、ずっと私たちに似合うのよ。そうなるのは、まさに……自然なこと」

「自然なこと」とクウェンティンは考えた。ボイ用服の売り場を見まわしながら、確かにそのように思った。見回してみると、かつては間違いなく逞しい男性的な男であった人が、フリルのついた下着やスカートやドレス、そして他の女性的衣類を買い求めている。その人たちは、まったく、居心地悪そうにしているとは見えない。自然なこととセールス・ボイは言った。それに同意しないというのは困難なことだろう。

*

グレッグは古い映画を見ていた。正確には、『暴力脱獄』(参考)。その時クウェンティンが両腕を買い物袋でいっぱいにして、ドアを押しながら入ってきた。

「ちょっとヘルプ!」

そう呼ぶと、グレッグがすぐに駆け寄り、クウェンティンを助けた。

「どうやら、何か着るものを見つけてきたようだね」 とグレッグがちょっと意味ありげな笑みを浮かべた。

「君の分もあるよ。サイズは想像してかったから、いくつか後で返品しなくちゃいけないのもあるかも」

「ああ」 との言葉だけがグレッグの反応だった。

「そんなふうに取るなよ。僕同様、君も服が必要だろ」とクウェンティンは荷物を床に置いて、玄関を締めた。

「僕が話した、例の記事、読んだ?」

「ああ」 とグレッグは言った。確かに驚くべき話だったが、グレッグはクウェンティンほど世間から離れていたわけではなく、あの記事がいうことの具体例は見ていた。

「信じないかもしれないけど、あの記事が言っていたことは全部、本当だよ。衣類から、ボイと男とか、何もかも」 とクウェンティンは興奮して言った。

「知ってる。この2週間ほどいろいろ目にしてきたから……」

「ええ? 知っていたの?」 とクウェンティンは訊いた。だがグレッグが答える前に彼は続けた。「まあ、それはいいや。それより、新しい服を試着してほしいんだ。サイズを間違えたかもしれないから」

グレッグは、困ったような溜息を漏らした。

「大丈夫だよ。あまり女っぽいのは買わなかったから。スカートとかレースとかは買ってない」

「それはそれは」 とグレッグは皮肉っぽく言った。

「こっちのふたつの袋は君の物」とクウェンティンは言い、右端の袋を指差した。「それから、これは言っておくけど、君も、こういう服に慣れておく方がいいよ。君も知ってるように、どうやら、この流れは変わりそうにないから」

グレッグは、怒りがじわじわと湧いてくるのを感じた。

もちろん今の流れが分かりそうにないのは分かる。そうだよ、その通りだ。自分も人から見たら、弱くて女っぽいナヨナヨ男だろう。ここにいるクウェンティンも同じだ。そのクウェンティンが、僕をその役割に従わせようとしてる。イライラしてくる! どうして、僕を放ってくれないんだ? どうして、クウェンティンは服を買いに出かけなくちゃいけないんだ?

グレッグは、後で後悔しそうになることを危うく言いそうになったが、何とか飲み込んだ。クウェンティンが悪いんじゃない。何も彼は悪くない。クウェンティンは、この悪い状況の中からも最善を得ようと頑張っているだけなんだ。

グレッグは深呼吸をし、買い物袋を掴み、「ありがとう」と呟いた。そして、困惑してるクウェンティンを後に、廊下をずかずかと進み、立ち去った。寝室に入ったが、感情的にドアをバタンと閉めないよう、注意した。そして袋をベッドに放り投げた。

自分は何になってしまったのだろう? 男でないのは確かだ。男というものは、恋人に夜毎、指でいじられ悶えるものではない。男というものは、女のような体形をしているものではない。男というものは、本物の男というものは、逞しいペニスで恋人の身体を貫き、激しく揺さぶり、恋人を喜び泣かせるものなのだ。だが、僕にはそれができない。そうグレッグは思った。自分は男ではないのだ。少なくとも、本物の男ではないのだ。

でも、そうすると、自分は何になったのだろうか? 自分は女ではない。男でもない。あの最近出現したボイにもなりたくない。

グレッグはベッドに倒れ込み、両手で目を覆い、自分の人生について考えた。クウェンティンはグレッグの気分を察して、邪魔はしなかった。それがグレッグにはありがたかった。

何分かそうした後、グレッグは身体を起こし、買い物袋の中をひっくり出した。クウェンティンは、その言葉通り、ひどく女性的なものは何も買っていなかった。ただのジーンズとかTシャツ、それにボイ・ショーツと呼ばれる下着類(それはデザインは男性用のYフロント(参考)のように見えるが、ボイの体形に合わせたものであるのは一目瞭然だった)。

「クウェンティンは僕のことを思いやりすぎるんだから」 

とグレッグは独りごとを言った。恋人の思いやりに、グレッグは、急速に卑しくなっている心が救われる思いだった。

立ち上がり、素早く裸になった。大きすぎる服は、脱ぐというより、締めつけを緩めると重力に引っぱられて落ちると言った方が良かった。そして、ボイ・ショーツに脚を入れた。柔らかく、無毛でつるつるの脚の肌にショーツを通し、確かに、履き心地が良くて、ピッタリだと認めざるを得なかった。

そして、次にジーンズを履いた。普段着ているものよりキツイ感じがした。特にお尻のあたりが。だが、それはサイズが合わないのではなくて、そういうデザインになっているんだろうなと思った。最後に黒い無地のTシャツを着た。

鏡を見て、自分の姿に驚いた。思った以上に女性的に見える。基本的にユニセックスの服を着ているにもかかわらずに、だ。グレッグは深呼吸をし、寝室を出た。

小部屋に入り、グレッグは目に入った光景に驚いた。クウェンティンがいて、腰を折って、前屈みになり、下着を履いているところだった。レースの黒いソング・パンティ。

クウェンティンは振り向き声をかけた。「苦悩から抜け出た?」

グレッグは肩をすくめた。「それって……新しいファッションってわけか?」

クウェンティンはパンティを引き上げ、前を隠し、グレッグの方を向いた。

「僕はこれに馴染もうとしているんだ。この状態を変えることができないならば、ボイっぽく生きて行くことに慣れた方がいいんじゃないかって。それに……」 と言いかけ、少し頬を赤らめた。「それに、これを履くとセクシーになった気分になるんだ。君は、これ、嫌い?」

別にグレッグは、その下着が嫌いだというわけではなかった。それよりむしろ、自分の恋人の変化が気に入らなかった。とは言え、グレッグはクウェンティンの気持ちを害する気持ちはいささかもなかった。

「それ、素敵だよ」

グレッグは嘘をついた。だが、その嘘のおかげで、彼はクウェンティンの輝くような笑みを見ることができた。ああ、いつものクウェンティンだ。僕が恋した男の、あの笑みだ、とグレッグは思った。

だが、その後グレッグはクウェンティンの笑顔以外のところに目をやり、大好きなあの笑顔を見た当初の喜びが、色あせていくのを感じた。彼は、その失望の表情を素早く隠したが、クウェンティンの姿とそれが意味することが、山火事のように彼の心の中を駆け巡った。

クウェンティンはもはや男ではなくなったのだ。心の中も男ではなくなったのだ。ボイであることを受け入れ、それに馴染みたいとの思いから、彼は、男性性にしがみつくための最後の一本糸も手放してしまったのだ。クウェンティンが、世の中の現実を受け入れ、その現実を最大限に有効活用しようとすることを、称賛する人もいるかもしれない。他の人なら、それも良いだろうとグレッグは思う。だが、クウェンティンを見ながら、グレッグは自分のことだけを考えていた。自分が愛した男は、もういなくなってしまったのだ。その代わりに出現したボイを、自分は愛せるようになるのだろうか?

*

クウェンティンはどうしてよいか分からなかった。新しい衣類を買ってから3ヶ月が経っていた(その後も衣類はたくさん買い込んだ)。そして、その3ヶ月に渡って、グレッグはみるみるクウェンティンから遠ざかるようになっていったのだった。今や、ふたりは滅多に話しあうことはなくなっていたし、グレッグは彼に一度も触れていない。おやすみのキスすらしなくなってしまった。

グレッグは頻繁に仕事を休むようになり、最後には、職を失った。クウェンティンはそのわけを知っていた。誰が見ても明らかだった。グレッグは気持ちがすっかり完全に打ち砕かれてしまったのだった。グレッグは男ではない。だが、ボイになりたいとも思っていなかった。彼の恋人は、もはや、好みのタイプではなくなっていたし、彼自身を形成していた男性性も失ってしまった。

クウェンティンが、たとえ困った状況であれ、それをできるだけ利用しようと決意し、すぐにボイであることを楽しむように変わったのに対して、グレッグはボイであることを真っ向から拒み、自己憐憫と喪失感に嘆き悲しむことを選んだのだった。

今の状況は理想的か? いや、ぜんぜん。その正反対だ。だが、クウェンティンは、自分とグレッグとの精神的な愛は、性的な魅力よりも強いものだと思っていた。

しかしながら、クウェンティンも単にそれだけとは思っていない。彼自身も変わったのだ。真にボイになろう、態度も服も心もボイになろうと決めた時、彼は、がむしゃらにそうなることを求めた。そうして、彼は、事実上、別の人間に変わったと言ってよい。そして、クウェンティンは、グレッグが最も高く評価していた部分を、見事に、喪失してしまったのである。それを自覚したクウェンティンは深く心を痛めた。

でも、何ができただろう? 環境の変化に対処するということは、愛情とは別のことだ。クウェンティンは、他の多くのボイたちも似たように反応しているのだろうと思った。そして、グレッグもいつの日か今の状態から抜け出るはずだと自分に言い聞かせ続けた。しかし、実際は、日ごとにグレッグはより悪い状態に嵌っていく。

あの事件のことをメディアはグレート・チェンジと呼ぶようになった。そのグレート・チェンジから1年半ちょっと過ぎた頃、とうとう、クウェンティンは、もうたくさんだと思うようになってしまった。もちろん、それまではずっと、彼は、自分の変化、グレッグの幸せと心の安寧にだけ、気持ちを集中させていたのである。自分自身とグレッグの変化について、一度も、悩まなかったことはなかった。

しかし、グレッグは「以前の自分」という殻に閉じこもったきりだった。めったに冗談を言うことはなくなったし、思いやりも愛情も示さなくなっていた。他の人の問題や心配ごとに、ほとんど関心を持たなくなっていた。端的に言って、グレッグは、完全に、人に好かれる人間ではなくなっていた。

そういう流れで、ある日、クウェンティンは腰を降ろし、グレッグに話しかけた。

「ちょっと聞いてくれ、グレッグ。僕は君を愛している。君が思っているよりもずっと、僕は君を愛している。でも、君は、今の状態から抜け出なくちゃいけないと思うんだ。心理療法士とか、そいうところに行くべきだよ。今の状況は変わりそうにない。君が突然、男に戻るということはない。だから、何と言うか……君には助けが必要なんだよ」

「話しはそこまでか?」 とグレッグはクウェンティンの方を向きもせず、吐き捨てるように言った。

「話しはそこまで? ああ、たぶん」とクウェンティンはむっとして答えた。「僕は、どう君に伝えていいか分からないだけなんだ」

「僕に何を求めている? 僕にフリルがついたパンティを履いたりドレスを着たりしてほしいのか? いいよ、着るよ。君は僕に化粧をしたりヘアスタイルに気を使ったりしてほしいのか? 何でもいいよ。僕は従うよ」 グレッグは棘のある言い方をした。

「僕は君に幸せになってほしいんだ!」 とクウェンティンが大きな声を上げた。

「見込みは薄いな」 とグレッグが吐き捨てた。

その後に沈黙が続いた。何秒か、ふたりとも何も言わなかった。クウェンティンはビックリしていた。グレッグは疲れ切ったように、遠くを見ていた。

「ちょっと、さっきのは言いたいことではなかった」 とグレッグは丸1分ほど経ってから、静かな口調で言った。

「いや、本気で言ったんだろ」とクウェンティンが答えた。「僕は……ふたりでこれを切りぬけられると思っていた……そう願っていたよ」

クウェンティンの頬を、一筋、涙が伝った。「でも、僕一人では無理だ。君自身がそれを望んでくれないと」

グレッグは黙ったままだった。

「どうなの?」 クウェンティンが訊いた。

「分からない」 と短い沈黙の後、グレッグが答えた。

その返事に、クウェンティンは打ちのめされた。グレッグが自分に性的魅力を感じていないことは知っていた。だが、愛があれば、自分たちは何らかの打開策を見つけ出すだろうと期待していた。

いや、それでもないとクウェンティンは思った。性的魅力の欠如と言うよりむしろ、性的魅力を使って行いたいことに関するフラストレーションと言った方がよいのではないか。要するに、グレッグは男になりたいのだ。男としての性的魅力を発揮したがっているのだ。ボイとか女性としての魅力ではなく。

確かに、グレート・チェンジの前は、ふたりは理想的な状況にいた。だが、クウェンティンは、もし、グレッグが前と変わらず男性のままだったら、彼はふたりの関係について疑問を抱かなかっただろうと知っている。だが、現状は変わったのだ。そうすると、問題は、前の状態を引きずっているグレッグにある。彼が今の状況で不幸であると思っている限り、彼は、誰に対しても、そして自分自身に対しても、真に愛情を注ぐことができない。

クウェンティンは座っていたカウチから腰を上げた。

「ならば、君は君自身で答えを見つけてくれ。僕は誰か友だちと遊びに行く。明日の朝までに、この状況から本気で抜け出したいのかどうか答えを見つけておくといいね。僕は君を愛している。でも、僕は、その僕の愛情に対して、そのお返しをする気がない人と一緒に自分の人生を無駄遣いする気はないんだ」

そう言ったきり、クウェンティンは家を出た。

*

玄関ドアがバタンと音を立てて閉まった。当惑したままのグレッグを、独りっきりに残して。

自分はクウェンティンとの関係を続けたいのか? 自分はクウェンティンのような人に値する人間ではないのではないか?

グレッグには分からなかった。それでも、クウェンティンはあれだけ長く僕といてくれたし、これからも長く一緒にいたいと思ってくれている。それは何かに値するんじゃないのか? だが、自分はいまだに現の自分の姿にほとんど考慮を払っていない。身体の変化から帰結した個人的な悪気として始まったものが、無力感につながり、それが渦を巻いてコントロールできなくなってしまっている。鬱屈した気持ちが次々に積み重なっていく。

かつて自分がそうであった男はどこに行ってしまったのか? 確かに身体的変化があったからと言って、本来の自分を完全に消滅できるわけではない。違うだろうか? それに、そういう男はクウェンティンは値しないのではないか? 少なくとも、ボイは彼には値しないのでは? グレッグは、クウェンティンならそうは思っていないと分かっているが、その自信がもてない。自分が彼にとって価値がある存在なのか、確信できない。

でも、今のままではダメだ。頑張らなければならないのだ。クウェンティンのためと言うより、自分自身のために。その努力の道はあまり良い結果にはならないだろうと思っている。自分が自己崩壊してしまっているのにも気づいている。ほぼ1年も、自己崩壊状態に浸って来たのだ。こんなふうに人間性を欠いた状態で人生を生き続けたら、結局、どうなってしまうのだろうか? グレッグは、それを考えただけで身体が震えた。

しかしながら、自分が変わる必要があると知ることと、実際に自分を変える意思を持つことは、まったく異なる。そしてグレッグ自身、そういうことを前にも考えた。自分を変える意思を持つということは、どういうことなのだろうか? 確かに、心理療法士も含まれるだろうが、その心理療法士は彼に多くのボイたちがなったような、ナヨナヨしたオンナ男になれと言うだろうか? それ以上に、その心理療法士は彼に「普通」になって、男たちの後を追いかけ、男と結婚しろと言うだろうか? それで何が解決するのだろうか? そうすることで自分は幸せになるのだろうか? グレッグは答えが恐ろしかった。イエスにせよ、ノーにせよ。

だが、それ以上に、グレッグにはひとつ単純な真理が見えていた。グレッグは、世界中の何より、クウェンティンのことを愛しているということである。彼のためなら何でもしよう。それは真実だ。

それに気づいた瞬間、グレッグはすべての疑問が解決していくのを感じた。クウェンティンを失うことは耐えきれない。そうならないためにどんなことでもしよう。それが、女性的なボイになることを意味するとしても、そうしよう。クウェンティンが何を求めても、彼の人生がどんなふうに変わっても、愛のために、クウェンティンのためにどんなことでもしようと思った。すべての疑念の暗闇の果てに、彼はそんな光を見つけたのだった。

それに気づき、グレッグは活気を取り戻した。そうしてほぼ1年ぶりに、彼は、未来について興奮を覚えたのだった。

*

クウェンティンは、酒を飲みながら、怒りまくっていた。この気持ち、少し酔ってるどころじゃない。友だちにグレッグについて、延々と不平を語り続けていた。だが、聞いてた友人たちは、いい加減、クウェンティンの話しに飽きてきて、ひとり、そしてまたひとりと席を外していった。今は、クウェンティンひとりになっていて、酔って独り言をぶつぶつ呟いていた。

「ずいぶん腹を立てているようだね?」 と彼の右側から、太い声がした。

クウェンティンが顔を向けると、そこには、褐色のハンサムな笑顔があった。

「関係ないだろ」 とクウェンティンは素早く言い、持っていた酒を飲み干した。

だが、その男は立ち去らなかった。その代わりに、しつこく話しかけ続けた。そして、とうとうクウェンティンもその男との会話に加わり始めた。その間、ますます酔いが進んだ。

*

翌朝、クウェンティンが身体を引きずるように玄関を入って来た時も、グレッグは起きていた。クウェンティンの服はしわだらけで、化粧もずれまくり、髪も乱れ切っていた。クウェンティンが何も言わなくとも、グレッグには、何があったのかが分かった。

「裏切り」という言葉がグレッグの心の最前列に浮かんだ言葉だった。だが、クウェンティンを責めることはできなかった。彼のすべての思考に悲しみの色が塗られ、彼は落胆の気持ちをマントで覆い隠した。

「2日以内に、荷物を取りに戻ってくるよ」 グレッグはそう言い、カウチから立ち上がった。

その様子をクウェンティンは見つめていた。「説明するよ……」と言いかけたがグレッグに遮られた。

「説明なんかしなくていいんだ」 グレッグは本気だった。「僕のせいなんだから。こんなに長く僕と付き合ってくれて、驚いているよ」

そう言って、グレッグは開いたままになっていた玄関から出て行った。玄関ドアが閉まる音。その音は、何か最終的であることを思わせた。

*

クウェンティンは、はあっと息を強く吐いて、カウチにどさりと腰を降ろした。両手で頭を抱え、そして泣いた。

自分は何を考えていたんだろう? 何も考えていなかった。怒っていて、酔っていて、そしてエッチな気持ちになっていた。この3つが合わさることは、バーで独りでいる可愛いボイにとっては、良いことではない。

そして、予想通り、誰かが彼を利用した。クウェンティンは男の名前すら知らなかったし、セックスのこともほとんど覚えていなかった。過ちだった。最初から最後まで。そして、クウェンティンはその過ちの代償を払ったのであった。グレッグが去ってしまった。何を言っても、どんな言い訳をしてお、グレッグは永遠に帰ってこないだろう。

クウェンティンにはグレッグのことが良く分かる。彼は怒ってはいない。ただ、失望しただけだ。それもクウェンティンに失望したのではない。クウェンティンにそんな行為をさせてしまったことを後悔しているのだ。その彼の気持ちを変えるような話しや言い訳は、どこを探してもなかった。

ああ、グレッグは行ってしまった。永遠に。クウェンティンは何時間も泣き続けた。

*

4年後。

クウェンティンは街を歩いていた。辛い人生だった。グレッグのことから立ち直るのに、ほぼ1年かかった。立ち直ったと言っても、まだ完全ではない。いや、グレッグは、いまだにクウェンティンにとって生涯の恋人のままで、他の誰とも置き換えることはできていない。

それでも、クウェンティンは考えつけるだけ、できるだけ人生を楽しもうと試みてきた。いろんな知り合いとデートを続け、中には楽しいと思ったこともあった。だが、本当の意味でグレッグに匹敵する人は誰もいなかった。

こんなにもグレッグのことを想うクウェンティンだったが、最後にグレッグに会ったあの日(グレッグがアパートから荷物を引き上げたあの日)以来、彼はグレッグに連絡を取ろうとはしなかった。グレッグの方もクウェンティンに連絡を取ろうとはしなかった。そのような時期はもう過ぎたと言ってよい。クウェンティンは先に進もうと試み、そして実際、先に進み始めた。難しいことではあったが。

世の中の方も、クウェンティン同様、先に進み始めていた。2ヶ月ほど前、グレート・チェンジに対する治療法が発見された。クウェンティンは、すでに人生を乱されたのに加えて、さらに乱されるのを嫌がり、その治療法と呼ばれるものを受けないことに決めた。彼は、今の自分に満足しており、かつての自分に戻る気はなかった。

しかしながら、その治療を受けることにしたボイも多かった。その結果、世界のジェンダー分布は落ち着きを見せ始めていた。

歩道を進むクウェンティンの目を、馴染みのある顔がとらえた。向こうから歩いてくる。クウェンティンは冷静に済ましたいと思った。普通にすれ違い、こんにちはと言う。そうするつもりだった。だが、たった2歩ほど歩みを進めた後、彼は、自分が駆け出していることに気がついた。ハイヒールが舗道を小刻みに叩く音が聞こえる。

あっという間に、その人との距離を縮め、彼は、その人の腕の中に飛び込んでいた。そして、心のこもったキスをしていた。

息を吸うためにキスを解いたグレッグが言った。「君に会えて嬉しい」

グレッグが治療を受けたのは明らかだった。再び、以前の彼に戻っていた(ボイであった頃の名残で、若干、女性的で、ちょっと身体が小さいかもしれないが)。

「もう私のところから去ったりしないで」 とクウェンティンは息を切らせながら囁いた。「絶対に」

「ああ、しない」とグレッグは答えた。そして、その2つの単語の後、ふたりは再びキスをした。


おわり
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