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Enough 「今のままで充分」

かつて彼はまっとうな男性だった。強靭でハンサムで男らしい。どこを取っても、期待通りの男性そのものだった。だが、実は彼はひどく不幸だったのである。彼は自分を憎んだ。そして、それゆえ、他の誰もをも憎んだ。それが変わったのは、彼が演技をやめ、ずっと前からそうなるべきだった人間へと真に変わろうと決めた時からである。だが、それは楽な道のりではなかった。そもそも楽だった時があっただろうか? 試練、艱難辛苦、葛藤、友人の喪失。それらが最初からずっと彼を悩ませ続けてきた。しかし、彼は到達した。ようやく、達成しようと歩み始めた目的の境地へとたどり着いたのだ。それは、私が夫を失ったということを意味するけれども、それでも、私は目的を達成した彼のことを嬉しく思っている。

彼が経験してきた様々なことを思うと何度も驚いてしまう。成長期、彼は決して本当の自分を見つけ出す機会を与えられなかった。いつも、「これがお前なのだ。そして、お前はこういう人間になるのだ」と言われ続けた。それについて疑問を抱く機会すらなかった。いや、むしろ、彼は、あえてその疑念を自分の心の中という安全な領域に閉じ込め、外に持ち出すことはしなかったと言うべきか。

彼には言っていないが、私は、彼が昔から何か他の存在になりたいと憧れていたのではないかと思っている。夜遅くベッドに横たわったまま目を開けていることがよくあったのではないだろうか? 暗闇を見つめながら、もし自分が姉のようにチアリーダーになることができたら、どんな人生を送っていただろうと想像していたのでは? あるいは、愛らしいドレスを着たり、化粧品を買ったりとか、男性には禁じられている様々な女性的な物事をすることを夢見ていたのでは?

成長するにつれて、彼はそういうあこがれや夢を、心の暗闇の奥深くへと押しやった。自分自身の本当の性質を見て見ぬふりをしようと必死に頑張った。それでも、時々、その緊張の糸が途切れてしまうことがある。10代のころは、家にひとりだけになるのを待って、姉のパンティを履いてみることが何度もあった。そして、私と結婚した後は、今度は私の下着をよく盗んだ。オンラインではトランス・ガールが出てくる動画を見ていた。男性が「強制」されて女性に変えられるストーリーを読んでは、羨ましさと興奮の入り混じった気持ちを感じていた。彼は、自分もそうなることを想像し、夢見ていたのだ。

だけど彼は決して行動には移さなかった。本当に全然。彼は極度に恐れていた。そして、鬱憤と恐怖でいっぱいいっぱいになった結果、彼は最悪のタイプの男性になってしまった。みみっちくて、細かいことにうるさく、いつも腹を立て、鬱屈し、他者を憎悪する人間。彼は周りにいる人間にとっては悪夢としか言えない人間だった。彼がカミングアウトする前、私たちは離婚寸前の状態にあった。

何が変わるきっかけになったのか、それを知ることができたらと願う。自分が幸せならば、他の人の意見など本質的にはどうでもよいのだと、誰かが彼に説得したのだろうか? 誰かが彼に壁を飛び越えるように後押ししたのだろうか? それとも、単に、長年にわたって蓄積し続けてきたものが限界を超えてしまい、とうとう自分自身で無視できないまでに達してしまったということなのだろうか? 私には分からない。それに、率直に言って、それはどうでもいいことかもしれない。私が知っていることは、彼がいま幸せでいるということだけ。それだけで充分なのだ。そして、これからもずっと、幸せでいるということだけで充分なのだ。




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