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Set Free 「自由に」

ゆったりした足取りで玄関を入る。広い玄関フロアに響くハイヒールの音。6個ほどショッピングバッグを抱え、ボクは雲の上を歩いているような気分だった。そんな気分になるのも当然。一日中、婦人物のショッピングをしてきて、しかも、ボクを見た誰もが、ショッピングで浮かれているブロンド髪の美人がいるとしか思わなかったから。まさに夢が叶った一日だったから。

でも、夢は、まさに夢であるがゆえに、どんな夢でも必ず終わりが来る。そして、今回の夢のフィナーレは、階段の上からの咳払いをする声の形でもたらされた。見上げると、そこには妻がいて、階段を下りてくるところだった。両腕を組み、顔には怒りの表情が浮かんでいる。

気持がどっと沈んだ。お腹が急にキリキリしだす。ショッピングバッグが手を離れ、床に落ちた。おどおどと顔を上げ彼女を見た。すでに涙が溢れ出ているのを感じた。頭の中、1000個は言い訳が浮かんでは消えた。シナリオには十分検討を加えてきていたので、こういう事態に対処する準備ができていると思い込んでいた。でも、それは間違いだった。明らかに。何度もリハーサルをしたはずの言い訳は、必ず始まる妻の激怒を前に、どこかへ飛び去ってしまっていた。

「いつからなの?」階段を下りながら妻が訊いてきた。彼女の足音が耳にこだまする。「言いなさい、クリス。いつから……そんな格好を?」

うまい答えはなかった。少なくとも、妻が受け入れてくれそうな答えはなかった。つい最近のことだとか、女装したのは今回が初めてだとか、言おうと思えば言えただろうけど、本当とは思ってもらえないだろうと分かっていた。すぐにバレてしまうだろう。単にボクの姿をじっくり見れば、完璧な女装をしてるのに気づくだろうという理由ではないかもしれないが、声が震えてしまい、嘘を言っていることに気づかれてしまうのは、必然だろう。だから、ボクは何も言えず、黙っていた。

妻は1階のフロアに降り立った。長い沈黙時間の間、頬を平手打ちされるだろうとだけ思っていた。だけど、彼女はそんなことはしなかった。その代わり、ボクの周りをぐるりと歩き始めた。手を伸ばしてきて、ボクの胸を擦る。思わず身をすくめた。人工乳房なので、触られた感じはしないが、それは関係なかった。震えが止まらない。ボクの周りを歩きながら、指を1本立て、腕や背中をなぞってくる。ようやく彼女が1周して、ボクの真ん前にきた。ボクは勇気を振り絞って「ごめんなさい」と言った。

「ごめんなさいねえ」と妻は鼻で笑った。「それで済んでほしいと思ってるのはあたしの方よ。あたしが、ずっと前から、病気になりそうなほど気を揉んできたの、知らなかったの? あなたがこそこそと出かけるたびに、浮気をしてるんじゃないかと思っていた。洗濯物の中にあたしの知らないパンティが混ざっているのを見つけて、その不安が増すばかり。本当じゃありませんようにと何度も祈り続けた。でも、今は? 今は、浮気の方がましだったかもしれないと思ってる。浮気だったら、少なくとも、あなたのことを男性だと言えたと思うから」

「ボクは同じで……ただ……ただの服装のことだから……ボクは別に……」

「言い訳なんかいらない、クリス」と妻は背中を向けた。「最初から正直でいてくれたら、ふたりで何とか力を合わせて向き合えたかもしれない。でも、あなたは正直ではなかった。だから、今さら、何を言われても、信じられなくなっているのよ」

「でも……」

「怒ってはいないわ」と妻はまたボクの方に向き直った。彼女も顔にも、ボクの顔と同じく、涙が伝った跡が見えた。「本当に、怒ってはいないの。多分、がっかりしてるというのが本当。怒れたらどんなにいいか。でも……怒りが沸いてこないの。だからお願い、クリス、出て行って。ここから出て行って」

ボクは家に留まるべきだった。妻に反論すべきだった。自分は変われると言うべきだった。でも、そうはしなかった。その代わり、ショッピングで買ったものを拾い集め、回れ右し、妻の指示に従ったのだった。自分の車のところに着た頃には、顔は涙でぐちゃっぐちゃになっていたはず。何だかんだ言っても、結婚生活の破綻というものは……確実にそうなると確信しているが……とてもとても悲しいことなのだ。ではあるけれど、運転席に着き、ボクの世界が音を立てて崩れていくのを感じながらも、ボクが考えていたことは、これでようやく、自分は自由になり、ずっと前から望んでいた人間になれるということだけだったのである。






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